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黄 : 今日はお忙しいところ有難う御座います。
今年は私どものラジオ局の日本語版サイト、VOICE OF CHINA開局5周年ということと、日中国交正常化40周年の記念で色々な方のお話をお伺いしております。

黄 : では早速お伺いしたいのですが、先生は青春時代北京で過ごされたと聞いておりますが、その時の北京の様子やエピソードをお話して頂ければと思います。

西園寺 : なかなか一言で言うのは難しいのですが、私の考え方では中国という国は面白い国で、物凄く変わったと思っても本当は変わっていない部分と、全然変わらないなと思っても本当は変わっている部分と両方あるんですね。
  私が北京に行ったのは1957年。 ということは、大分昔ですけれど当時は物凄く貧しかったです。ただ、私が東京から北京に行って貧しいなとは感じなかったんです。というのは、当時は日本も貧しかったからなんです。北京の場合は感覚的にそれほど変わらなかったです。
  ということは、経済とか生活レベルから考えると、北京と東京の差が開いたのは60年代ですよ。 今の中国を見ると色々な問題があるでしょうけれども、物凄く発展して人々が豊かになりました。私が行った1950年代の終わりから比べると別の国のようです。

黄 : 確かに。

西園寺 : 私が1958年に北京に行って物凄く感じたこと、あるいは感動したことというのは、中国の人たちは子供から 大人まで含めて、本当に自分の国をなんとかして建設しようという意気込みに燃えていました。
この情熱は凄かったです。
  色んな人がいるんでしょうけれども、自分の国をなんとか建て直す、あるいは建設するというのが個人の利益よりも かなり先行していた感じで、これだけ皆さんが国の為に何かしたいと思っているというのは、ある種のカルチャーショック でした。
  そういう意味では時代は違いますけれども、もしかしたら、今のかなり豊になった中国の一般の人たちに比べれば当時の人たち の方が純粋だったのかも知れないという気はします。

黄 : 根底に中華思想というか、中華民族の思想というのがやっぱり強く顕れていたのがその当時じゃなかったのかなと思うのですが。

西園寺 : 少なくても中華思想というのはね、中国は世界の中心だという考え方ですよね。

黄 :  えぇ。

西園寺 : 当時は中国でいうところの開放され、国が独立したばかり。 中国が世界の中心だなんて誰も思っていませんよ。
  それよりも、なんとかして先進国に追いつきたい。 やっぱり我々はかなり貧しくて色んな戦争とか災害にあい、 あるいは侵略されたり、かなり貧しくて立ち遅れていて、 それを如何にして取り戻そうかという意気込みがあったと思います。
  だから当時は中華思想というものは感じませんでした。

黄 : その当時は無いにしても、何か根底にそういうものがあったのではないかと思うのですが。

西園寺 : これは私個人の理解ですが、根底にあるのは中国は非常に貧しくて弱かった。だから外国に虐められた。やはり我々がもっと強くなり、独立して軍事力だけでなく色んな意味で力を持たなくてはならない。そうしないとやっぱりまた虐められる。それが強かったんだと思います。

黄 : 先生は大学も北京大学でしたよね。

西園寺 : 私は中学3年生の時に北京に行き、中国の中学3年に入り直し高校3年間行って大学に入りました。

黄 : 前にお聞きした時には、ちょうど北京大学に在学中に文化大革命があったと。
  その当時、先生は日本人として中国に行ってらした訳ですよね。 文化大革命の時に何か影響とかはなかったのですか?

西園寺 : 私は1962年に北京大学に入ったんですね。そして文化大革命が始まったのが1966年です。
  当時の北京大学は特に文化系は5年制でした。今は4年制ですが。
  今はちょっとシステムが違うのですが、当時は学問を4年して最後の5年目は卒業論文を書くというシステムでした。

  私たちのクラスの場合は4年制の学問はもう終わっていたんです。
  そして、いよいよ卒業論文を書くという時に文化大革命が始まったんです。 だからまだいい方なんですよ。勉強は終わってますからね。

  まだ幼稚だったのかもしれませんが、私自身はある種の感動を覚えましたね。
  というのは、学生たちが如何にして自分たちの国を正しい方向へ進めて行くのかということを常に考えていたからです。
  当時は中国にとって敵というのが二種類あったんですね。 一つはアメリカを中心とした帝国主義、もう一つはソ連という国があって、その国は社会主義という道を外れた修正主義だといわれていました。 その二つが敵だったんです。

  特にその当時の中国の人たちは元々社会主義だったソ連という国が道を外れたということ、我々は道を外れてはいけないと思っていました。
  そういう考え方が強くて、みんな本当にそう考えていたんです。 ただ、それが文化大革命が進むにつれて過激な面が出てきたんです。

  大学の中でも、元々考え方の違う人たちが議論をする。それがこうじて今度は殴り合う、いわゆる武闘になりました。
  そういう武闘的なことが随分起こったり、非常に過激に教授や指導者を吊るし上げたりそういうことがどんどん起こってきました。 それにはやっぱり非常に違和感を感じました。

黄 : 私は文化大革命当時は横浜の中華学校の学生でしたが、そういう情報は政府から学校に入って来てました。
  ただし、それが悪いことではないと。 祖国を良い方向へ導くための過程だと。 その為の革命だと。

西園寺 : 私も当時はそう考えていました。

黄 :  そのように教えられました。 しかし、まぁ今から思えば過激で暴力沙汰になったり、吊るし上げたりとかっていういけない部分もあったかも知れないですけど、
  それでも文化大革命が起こって何か良かったこともあるのではないかと思うんですね。

西園寺 : こういうことを言ったら中国の方に怒られるかも知れませんが、私は文化大革命を全面否定していないんですよ。
  というのは、ある部分、例えば精神の部分で幼稚だったかも知れないけれども、若い人たちが本当に自分の国の将来を考えて 何をしたらいいだろうかと、少なくてもそう考える人が多かった。 その部分については否定はできない。

  それはある意味では、当時世界中で巻き起こった学生運動と似ている部分ってあると思うんですね。 それからもう一つは、これも否定できないのは、中国は革命がありました。
  そして中国共産党というのは民衆と一体になって一緒になって戦ってきたんです。 それこそ共産党の軍隊っていうのは最初はボロを纏って粟を食べながらね、小銃一丁持って大衆とともに戦ってきたんです。 それで結局、国を作ったわけですよね。

  ところが一部の幹部は政権を獲ると指導者の椅子に座って、それが心地よくなって、物凄く大衆を見下すとか色んな特権を振りかざす とかいう部分が少し出てきたわけです。 これに対する反発というのはあったと思うんですね。 そういう汚職とか特権とかね。
  そういうものがある部分出てきて、それに対する一般の民衆の反感というものは、それは決して間違ってないと思うし、 その課題というのは今でもあると思います。

黄 : 国を良くする為の過程としてそういうこともあったということで、もちろん悪いというか良くないところも沢山ありますが、 まぁ、そういう意味では学生、若い人たちが一致団結して同じ目的に向かうということは悪いことではないと思います。

西園寺 : 少なくても最初はその志というのは非常に純粋だったと思います、それがだんだんエスカレートしていって間違った方向、 間違ったやり方をとっていってしまったんですね。

黄 : 先生は青春時代を北京で過ごされましたが、何か楽しい思い出などもお聞かせください。

西園寺: 色々あるんですけどね。 私は当時、中学校3年生でしたから何も知らなくて、中国のABCも知らない。 そんな中北京に行った訳ですが、行く前に色んな人に色んなことを言われました。

一つは、かつて日本は非常にひどいことをしました。 中国を侵略して沢山の人を殺して非常に悪いことをしたと。 だから必ず中国人は日本人を恨んでいる。 あなたたちが北京に行ったら絶対虐められる。と言われました。
  だから物凄く怖かったんですよ、僕自身。 緊張して行ったんですけども。 しかし、私は北京で10年間暮らしている間、そのような嫌な思い、例えば石を投げられたり虐められたり、唾をかけられたりとか一回も なかったですね。
  確かに私の一家の場合は当時の周恩来総理の庇護の下にあって特別かも知れませんが。 しかし、学校はどこも同じですから、そういう意味では非常に緊張していましたが、そういう嫌な思いはしたことがないですね。 そして非常に印象に残っているのが周恩来総理の奥様に大変可愛がってもらったということです。

  家に行った時にはほとんど周恩来総理が家にいなかったのですが、ある日にお邪魔した時に周総理もいて、その時に色んなお話を聞いたんです。
  周恩来総理は中国が日本と正常化して仲良くしていくという方針を決めたのは1950年代の始めでした。1949年に革命が成功してすぐです。 つまり中国の共産党とか政府がそういう方針を決めたのがすぐだったということです。 ところが、それをやっていく為には障害というかネックが二つありました。
  一つは相手のあることだから日本も本当にそう思うかと、仲良くして行きましょう、正常化して行きましょうと日本が思うかどうか。これが一つです。
  もう一つは、中国の民衆感情。その時は周総理も率直に言って、今中国の民衆の中には日本憎し、日本に恨みを抱いている感情が渦巻いていると。そういう感情がある以上なかなか日中の正常化というか仲良くはしていけないと思っていたこと。
  だから一つは国内問題でこのような民衆の感情をどうしていくのかと、これは非常に党とか政府の幹部は頭を使いました。連日会議があって、どうしたらいいかと。これは周総理が直接お話してくださった話ですよ。そして、一つの結論に達したと。それは、日本人というのを二種類に分けることだと。戦争を画策して命令して実行したごく一部の軍国主義者と、それから一般の国民あるいは動員されて中国にやってきた一般の兵士、これを分けることだと。

  それで、ごく一部の戦争を画策して実行して命令したこの部分については許せない。
  絶対に許さない。しかし、一般の国民は我々の友であると。ここと仲良くしなければいけないんだということを民衆に知らせるしかないという結論に達したということです。
  それからずっとその後、中国は民衆に対してそういう教育をしてきたんですね。
  恐らく、それがあったから我々は軍国主義じゃないし、一般の国民だし、だから中国の人たちは我々を虐めなかった。必ずどこに行っても軍国主義と国民というのを分けて語っていたしね。そのことは物凄く印象深いですね。

黄 : しかし、そういういい話は日本には伝わってきていませんよね?
  それがとても残念に思えます。中国もそうですけど日本も周恩来総理をとても尊敬している人が沢山いますよね。

西園時 : まぁ、周恩来総理に比べれば奥様(ケ頴超女史)はまだ知られていない人が多いと思いますが、この人も大変素晴らしい方でこんなエピソードがあります。
  私たちが初めて中南海の周恩来総理の家に招かれた時、応接間に通されたらとにかく質素なんですよね。額ひとつ掛かっていない。

黄 : 本当に質素なんですね。

西園時 : ソファーカバーにはつぎはぎがされている。
  そのうちにある初老のご婦人がお茶を持ってきてくれました。 洗いざらいの木綿の服を着ていて。 僕らは『流石に周恩来総理のうちのお手伝いさんはこんなに質素なんだな。』と思っていました。 うちの母もそう思っていましたよ。
  それから周総理が出てきて、そのお手伝いさんに『これが私の妻です。』というふうに紹介されたんです。 『えぇ〜!?』って驚きましたね(笑)

西園時 :  周総理といえば外交の舞台でパリッとした格好いい人なんですけれども、 家では洗いざらしの木綿の服を着て布靴を履いて本当に質素な人でした。

黄 :  私は奥様のことは学校でも学んだりして写真も拝見していましたので、本当に質素な人だなって感じていましたね。

黄 :  奥様には初めてその時お会いしたのですか?

西園寺 : はい、その時が初めてでした。
  それ以降は時々お邪魔してお話を聞かせてもらったりしました。一番最初にお会いした時にケママが、
『学校はどうですか?』と、
『もし何か困ったことがあったら友達に相談しなさい。』と、
『それでも解決しなかったら、先生に言いなさい。』と、
『それでもダメなら校長に言いなさい。』と、
『それでも問題があるなら私のところに来てください。』と、
こう言ってくれたんですね。 まぁ、そこまで問題は無かったんですけどね。
  後から聞いた話ですけれども、私が通っていた中学、高校に必ず一週間に一回ケママが校長に電話してきて、 『うまくやっていますか?問題ありませんか?』と、必ず聞いてくれたらしいんです。 そのことは私は最後まで知らなかったのです。

黄 : 思いやりですよね。

西園寺 : 1959年から1961年、ちょうど僕らが高校生の時に中国では物凄い飢饉が起こったんです。100年に一度と言われる自然災害が起こったんですね。これは後から考えると、自然災害だけじゃなくて大躍進とか毛沢東の「求心的退去」政策による 経済の失政というのが重なったんですけれども、同時はそれは分からなかったです。
  そういう経済の失政と自然災害が重なって物凄く酷い状況になったんです。
  飢饉が起こって。例えば北京でさえも我々の高校ではまず体育の時間が無くなりました。食べるものが無い状態になりました。僕らはそれまではお昼は学校で食べていたんですね。

黄 : 家に戻るのではなくて?

西園寺 : はい。学校で食べていたんです。普通の時でも白米は週に一、二回しか食べられなかったんです。あとはトウモロコシで作った団子と、あるいはサツマイモとかコウリャンだったのですが、それすらも無くなりました。もちろん白米も無い状態です。

黄 :  あの時は干ばつでしたっけ?

西園寺 :  南は水害、北は干ばつ、真ん中は虫害。一気に来たんです。

黄 :  全部に来ちゃた訳ですよね。

西園寺 :  それでとにかく白米は無くなる、コウリャンも無くなる、肉ももちろん無くなる、とういうことで毎日朝から晩までサツマイモですよ。

黄 :  日本と似てますね。

西園寺 :  そう。ひどい時は学生たちが列を作って公園に行って木の葉っぱを落として、それを加工して食べる。北京でさえもそうでした。

黄 :  田舎なんてもっとですね。

西園寺 : そういう状況の中で、学校から私と私の弟に『お昼を学校で食べてはいけない』って言われたのです。ろくなものは無いし、身体壊したら大変だと。
  うちの父は『どんな状況でも皆と同じものを食べろ。』と言うんです。
  それで学校は『頼むから家に帰って食べてくれ。』と、
  それでもうちの父は『いや、ダメだ学校で食べろ。』と言ったんです。
  その時に校長が『いや、これは周恩来総理の命令です。』ということで、大変気を遣って頂いたんです。
  まぁ、そういうことが多かったですね。
  でも、大変なことや苦しいことが沢山ありましたけれども、今思い出すのは楽しい思い出ばかりですよ。

黄 : そうですか。ケママは先生から見てどうでしたか?ママとして、女性として。

西園寺 : ある意味では普通のおばさん。物凄い気配りの人で相手のことを色々考える方です。
  一番最初に招待された時に家でご飯をご馳走になったのですが、その時に漬物が出て来たんですね。うちの母が『この漬物美味しいですね。』って言ったら、『それは自分で作ったんですよ。』って言うんです。毎年自分で作ると。そして、『本当に美味しければ毎年お届けします。』と言うんです。もちろん、うちのは母それを外交辞令だと思っていたのですが、しかし毎年届きました。文化大革命までね。

黄 : 文化大革命の時はやはり行き来はなくなったのですか?

西園寺 :  ほとんどなくなりました。まぁ、うちの場合はそれほど被害を受けたとかは 無かったのですが。周恩来総理とかケママ(ケ頴超女史)とか廖承志氏とかに中々お会い出来なくなりました。 もちろん中南海にも行けなくなりました。

黄 : では最後の一年がちょうど文化大革命だったのですね。それで卒業なさったんですよね?

西園寺 : 卒業も面白いんですよ。私は67年卒業なんです。66年に文化大革命が始まったんです。始めの頃は外国の学生だけ特別に授業をしてくれたんです。中国の学生は授業が無くなっていたので。だけどそれも無くなりました。だから66年の終わり頃にはもうなんにも無くなっちゃっいました。それで多くの留学生は帰りました。我々は北京にいましたが、そして67年になりまして、学校はほとんど封鎖状態になりました。しかし僕らは外国人ですから卒業して卒業証書をもらって国に帰らなきゃならない。でも、大学に行ったら校長もいないんですよ。いわゆる打倒されて。誰もいない。そしたら学校から『卒業証書は出せません。』という訳ですよ。誰もいないし校長もいないし。校長のハンコも無いからと。しかし、我々は日本に帰って就職しなきゃならないんでどうしても必要ですからと言いました。それで結局、周恩来総理に頼んだんですよ。

黄 :  連絡は取れるようになっていたんですね。

西園寺 : 連絡はつくようになってました。それで頼んだらすぐにそれをやってくれました。『北京大学にすぐ来てください。』と言われて行ったら、卒業証書を用意してくれていて。私の卒業証書はおそらく世界で一つしかないものです。もちろん中国の学生はそんなの持ってません。卒業証書があってですね、そこに『右の物は何々学部を卒業致しました』と、それでハンコが押してあって校長の署名が無い。

黄 :  居ないから?

西園寺 :  居ないから(笑)

黄 :  ただ学校のハンコだけ?

西園寺 :  そうそうそうそう!こういう卒業証書は僕が初めてだと思います。

黄 :  多分唯一でしょううね。世界で。今でも持っていますか?

西園寺 :  今でも持っています。

黄 :  他の方は、例えば日本から来た留学生はどうなったのですか?

西園寺 :  日本からの留学生は他にいませんもん。あっ、唯一日本人が二人いたんです。 もう一人はヤギ君、彼は中国生まれ中国育ちの日本人。

黄 :  卒業証書はもらえたんですか?

西園寺 :  卒業証書はもらいました。彼は政治学部で僕は経済学部でした。

黄 :  良かったですね。

西園寺 :  その二人だけ。

黄 :  そうですか。分かりました。

黄 :  青春時代は北京で過ごされて日本に帰ってきて色んなことがありましたよね。 長い日中の歴史っていうのは本当に谷あり山ありで、それでも今年は国交正常化40周年ということで、 今まで先生から見た日中の歩み、それのポイントみたいなものをお話して頂けたらと思います。

西園寺 : そうですね、まぁ長い歴史があるんでしょうけれども、やっぱり僕は日本と中国の関係っていうのは、中国と他の国との関係とは随分違うと思うんですね。
  アメリカにしてもヨーロッパにしてもそうですけど、中国とアメリカとの関係にしても中国と他の国との関係というのは、まず国交正常化有りきなんですよ。国交正常化有りきでそれから色んな国交が始まる。ところが、日中関係の場合はまず民間交流から始まったんですね。色んな民間交流が始まってそこからだんだん大きくなって、いわゆる民間交流の積み重ねの上に国交正常化があるんですね。私は国交正常化というのは、日中国交正常化が実現した背景というか原因はいくつかあると思うんです。
  一つはやっぱり国際情勢の変化ですよね。ニクソン訪中があって世界が変わってきました。
  そういう中で日本も乗り遅れちゃ大変だってことで。それから、もう一つは民間の交流の積み重ねがあったということです。ですから、いざと言う時に国民世論というかメディアも含めて国交正常化すべきだというのがどんどん巻き起こって来たんです。特にニクソン訪中以降。
  それにプラスそういう空気の中での田中角栄さんの決断ですよ。当時は自民党の中では台湾派が多かったですから、そういう中でやっぱり世論を背景にしてね田中角栄って人が決断をしたこと。そのいくつかが寄り合わさって国交正常化が実現したと思います。
  そういうなかでやっぱり基盤というか基礎を作ったのは、長い間積み重ねて来た民間交流だと思うんです。

黄 : 日中友好協会も中国の国の設立と同じ60周年なんですよね。ですから、それも民間の日中友好の団体ですが、私も聞いてビックリしたんですけれども、国交が正常化する前に日中友好協会というものが出来てるということですよね。先生がおっしゃた通りに。

西園寺 : 我々の先輩ですけれども、1949年10月1日に中華人民共和国が出来て、そこで中華人民共和国の成立のお祝いに日本全国からも各部から人が集まりました。2,000人くらい集まりました。そこで友好協会を作ろうという決議をして、一年間の準備を経て中華人民共和国成立一周年の時に日中友好協会が出来たんです。この日中友好協会を作ったのは日本の心ある人たちと華僑なんですよ。この二つの団体が作ったんです。
  やっぱり当時華僑の果たした役割は大きかったです。その後60年代になりまして、中国の政府の決定で中国籍を持つものは日本の政治運動に関与してはいけないという指令が出ました。それで当時は国交正常化前ですからどうしても日中友好協会の活動は政治運動の意味を帯びてきます。そういうことがあって華僑の人が引いていったんです。このような経過がありました。

黄 : そうすると、やっぱりその40周年にあたり基盤を作ったのは民間のそういう有志、本当に日本と中国が仲良くなってもらいたいと願った人たち、諸先輩方、その人たちの力が大きいということですよね。

西園寺 : やっぱり僕は思うんですけれども、当時、日中が仲良くしなければいけないと、正常化しないといけないと友好を目指す色々な組織を作らなきゃいけないという我々の先輩達ですね、その人たちの心の根底にはねやっぱり贖罪意識があったんですよ。
  日本は侵略をしてね、中国に大変な災害をもたらした。そういうことは二度とやってはいけない。それを阻止出来なかった我々にも問題があるということで、それこそ政界でも財界でも文化界でも色んな人たちがもう二度とこういうことはやらないという一つの反省の誓いみたいなのが基盤になっていたんですね。ですから、そういう人たちのそういう志というのは物凄く強かったんですよ。ところが今60年以上経ってですね、その戦争を体験した世代の人達というのがだんだんいなくなって来ています。
  そして新しい世代がどんどん国の中心になってくる。そうすると、これは教育にも問題があるんですけれども、新しい世代というのは明治維新くらいまでで、日中関係においてもっとも大事なところ、日本の軍国主義化と対外侵略いうところは学んでないんです。だから知らない人が多い。今の日本と中国は仲良くすればいいという人は多いですけど、心の核みたいなものが無いんですよね。

黄 :  昔の人のようになんか心に秘めたものが無いということですよね。

西園寺 :  そう。

黄 :  それは中国の若い人にも言えることですよね。

西園寺 :  中国の若い人にも言えることです。

西園寺 : 僕は母校の北京大学とか他の大学でも講座を持っているんですけども、私が話すのは1949年から1972年までの日中関係史なんですよ。中国の若い人たちは歴史は学んでます。ですから日中の戦争、日本の戦略の歴史は全部知ってますよ。彼らの頭の中には日中関係というのは戦争が終わった次は田中角栄なんですよ。その間の23年間がスポッと抜けています。

黄 : それは学校で歴史を教えてないということではなく、あまり必要性がなかったということなんですか。

西園寺 : いや、あまり教えてないと思う。ところが良く日中関係は歴史認識だって言いますよね。
  私は本当は歴史認識というのは二つあるべきだと思うんです。一つは戦争の歴史。 これをきちんと認識すること。もう一つは1949年から1972年までのこの間の日中関係史。 これが物凄く大事です。よく中国の学生たちに話すんですけど、例えば、色んなことがありましたが、 当時の社会党の委員長で浅沼稲次郎さんという方がいました。この人はあの冷戦下非常に苦しい時に日中友好を叫んで 日中は早く仲良くならなければいけない。その為にはアメリカをも批難した。 その為に刺されて死んだんですね。つまり日中の正常化、友好の為に命を落とした人です。そんな人が沢山いました。 こういう話はみんな知らないです。
  私は学生によく話すのですが、あなたたちが時々反日運動をやる。それは心情的には理解できます。 例えば、日本で靖国を参拝し、色んな発言があった。それに対して怒る。それは分かります。ただね、あなた方はやっぱり歴史を知るべきだと。 つまり、1949年から1972年の正常化まで日本の心ある人たちがどれだけ苦労して、 どれだけ血を流して、どれだけ汗を流してきたか。この歴史を知ったらあなた方はああいう行動にはならないだろうと。
  例えば、これは一部かも知れないけど、どうして日本の留学生を殴る必要があるのか?どうして日本の商店に石を投げる必要があるのか?日本の心ある国民も一緒に血を流して汗を流してやってきたこの苦労の歴史を知れば、恐らくあなた方はそういう行動をしないだろうと。良く言うんです。

黄 :  やっぱりお互いが理解をし合うにはどうしたら良いかという、それは私がいつも思っていることなんですけど。 今のところ民間レベルでの文化的交流から始めるしかないのかなぁと。

西園寺 :  私はね、率直に言いまして日本と中国の両方のメディアが悪いと思う。

黄 :  私もそう思います。

西園寺 :  特に今この時期は日本のメディアが悪い。やっぱりメディアというものはどこの国でも批判静止をしなきゃいけないんです。 日本のメディアが中国の悪いところ中国の不足しているところ批判するのは一向に構わない。必要だと思う。 ただ、中国はすべて悪いみたいな報道が多いからこれはフェアじゃない。

黄 :  いいところもあるんですよね。

西園寺 :  そう、いいところも沢山あります。

黄 :  それから今学ぼうとしている気持ちもある。私もそれを感じてTV局の人たちとお話をするときに聞いたんですけれど、 日本のテレビのニュースの報道はいつも中国の悪口ばっかり。どうして?って聞いたら、 中国のいい話をしても視聴率が取れないんだよ。って言ったんですよ。私それを聞いて、 じゃあ私がいい話というか本当の現実の中国と日本をみんなに知ってもらいたいなと思いました。

西園寺 :  まぁ、これは適当かどうかは別として、チベット問題というのがよく報道されていますね。
  日本の一般の国民の中にはこういう認識があるんです。チベットの人たちは抑圧されている人たち。 中国人とか中国共産党は抑圧者。ダライ・ラマは民主主義と人権の代表者だと。これを中国が虐めてると。 こういう図式で報道しているんですよ。 ところが私はある時に、私が元居た新聞社の後輩の若い記者に、君ね、1959年にチベットで何があったか知ってるか? と聞いたところ、知らないと答えました。1959年以前のチベットというのは農奴性社会だったんだよと。 酷い農奴性社会で、その頂点にいたのがダライ・ラマだと。そんなことがあったんですか?と言う訳ですよ。 まったく何も知らないんです。だから記者もね、若返っちゃって歴史を知らない。 だから非常に問題があります。
  もう一つは、ある記者でとても理解のある人なんだけれども、 『先輩、今は中国と小沢を批判してたら視聴率が取れるんですよ。』何か悪者作ってそこを叩くことによって ストレス解消している。日本が今閉塞感を感じているから。それが、ある意味で小沢一郎であり中国であると。 それはメディアとしては非常に良くないことです。

黄 :  いいところも悪いところも客観的に伝えなければいけないですよね。 なんか虐めの対象みたいな、それはメディアの正しい姿ではないですよね。

西園寺 :  私は中国のメディアも欠陥があると思います。 中国のメディアは日本のメディアと性格が違うから、仕方がないのでしょうが、 政府の政策によって変わるので。 例えば、日中友好の政策をやるんだとなれば、みんなで友好友好ですよ。 日本の政府を批判するんだってなれば、みんな批判する。これはメディアとしてはちょっとおかしい。

黄 :  共産党の言うとおりと言うことですね。

西園寺 :  もっとこう客観的に、日本に対しても批判をするのは一向に構わないけど、 しかし日本のいい所も悪い所もあるしね。それを客観的に報道するのがメディアです。

黄 :  今は中国が好きでない国No.1になっていますが、 きっと理解する人が増えてお互いに交流も増えればもっと良くなるんじゃないかなと私は思うんです。

西園寺 :  やっぱり地味だけど接触することですよね。色んな統計がありましてね、 日本から中国に観光旅行に行った人の9割は中国に対していい印象を持って帰ってくるんです。 それから、中国から観光に来る人もやっぱり9割はいいっていう感想を持って帰って行くんです。

黄 :  100%に近いくらい日本はいい国だって言われてますよね。

西園寺 :  中国に行った日本人も中国から来た中国人も言うのはね、やっぱり報道と違うと。

黄 :  だからそういう点が線になり、線が面になるっていう感じでだんだんこう増えて行けば 理解して貰えるんじゃないかなぁって思いますね。 中国は人口が多過ぎるっていうものあるんですよね。 十何億対一億ですから。でも、そういう可能性というか希望をやはりもって取り組みたいですね。

西園寺 :  我々が皆さんと協力して夏休みに北京から5、60人の高校生を呼んでいるんですね。 サマーキャンプということで。それで、そのうちの1日か2日は高校生のいる家庭にホームステイさせるんですよ。 そうすると、たった1日、2日で言葉もろくに通じないのに帰りはみんな泣いているんですよ。そういうものなんですよ。

黄 :  私はそれを自分で経験したことがあって、中華学校の高校の時に初めて 中国に修学旅行に行ったのが私の学年なんですね。 もうどこのホテルに行ってもみんながコック長から従業員が温かく迎えてくれて、 帰る時はみんな涙涙で。そういう覚えがあるので、やはり心が通じるとそういうことが起きるんだなぁと思います。

西園寺 :  やっぱり人間ていうのは感情の動物だから接触すれば情も移るしね、だからなるべく交流・接触することですね。

黄 :  特に若い人交流をして頂きたいですよね。

黄 :  日本と中国が隣国同士仲良くやって行くためには先生のおっしゃった交流ですが、どうすることが一番いいですか?

西園寺 :  私は民間の交流と特に青少年交流っていうのを我慢強く続けていくことだと思います。
  それは歴史に例がありましてね。かつて第二次世界大戦の時にヒトラーが、ナチスが暴れまわって、 あの時は一番屈辱的な被害を受けたのはフランスなんです。 西ヨーロッパのドイツとフランスっていうのは代表的な国。 この国が仲良くならなければ戦後は無いって言われていました。 この二つの国がまず始めたのが青少年交流なんです。20万人計画というのがあってね。 どんどんお互いに青少年交流を始めたんです。それによって、まぁそれだけじゃないけど、 ドイツとフランスが和解したことによってヨーロッパはEUも出来た。それが基盤にあるんですね。 アジアが仲良くしていく為には、日中韓ていうのは本当に親密にならないとダメなんです。鍵はやっぱり日本ですよ。

黄 :  中国からしても韓国からしても、日本はやっぱりお手本というか先進国であり、世界の中でもリーダーシップを取る国ですしね。

西園寺 :  一面ではお手本。一面では加害者ですからね。

黄 :  まぁ、それでも中国からして見れば、お手本になる部分が大きいというのがあるので、 やはりこれからは若い世代でそういうリーダーシップを取って日本・中国・韓国という三つ巴になって欲しいですね。

西園寺 :  もう一つは、文化交流だと思うんですね。
  政治・経済で仲良くなるっていうのは中々難しいと思うんです。 まぁ政治は体制も違うしね、経済は利害関係が絡むから、まぁもちろん大事ですけれども。 やっぱり文化というのはね、例えば日本人が中国の政治制度が嫌いだという人が多いですよ。
  経済もイケイケドンドンで圧力を感じるという人がいますよ。ただね、中国の文化を嫌いだという人はほとんどいませんよ。 もう一方では、日本の文化にも素晴らしいものがあるんです。その中の多くはね、 かつて中国にあって今は中国では滅びちゃって日本では残ってるものもあります。 あるいは日本でもっと発展して残っているものも。そういうものが沢山あるわけですよね。 そういう文化の交流というか、お互いに文化を学ぶというのは大変国民感情を良くする為には重要だと思います。

黄 :  そうですね。一番手っ取り早いというのは変ですけど、一番やり易いですね。
  政治・経済というのを抜きにすれば日本と中国は絶対にうまく行くと思うんです。 というのは、唯一漢字を使う国ですよね。この二つの国は。共通性が沢山あって。ルーツをたどると一緒かなって思う事が多々あります。
  地方都市、田舎の方、例えば中国の雲南省とかに行くと日本の熊本のどこかに似てるなって思うことがあります。食べ物風俗習慣とか。そういう意味ではやっぱり文化の交流というのが大事だと思いますよね。

西園寺 :  お互いに文化力を発揮して欲しい。文化交流というのはまだまだ足らないと思うんです。

黄 :  そうですね。

黄 :  最後になりますけど、今後の日中の展望としてはどうでしょうか?

西園寺 :  私としては、そんなに悲観的に考えてはいません。というのは、 今は経済が中心ですけれども相互依存関係というのはどんどん深まって行きますよ。
  これは一方的ではなくて双方の問題で、やっぱりこれから日本が生きていく上で中国という国を絶対に無視出来ない。 中国もまだまだ日本から学ぶべきところは沢山あります。
  そういう意味ではお互いに必要。というのがこれから益々高まっていくと思います。 そういう意味ではお互いがお互いを理解し合って行かなければならない。 ですから、面白いのは私、孔子学院やっていますけれども、国民感情は依然として悪いですよね。 でも、中国語を学ぶ人たち去年一年前に比べて3倍くらいになっているんです。

黄 :  年齢層はどうでしょう?

西園寺 :  ここは社会人教育ですから、初めは中高年が多かったです。 しかし最近は、サラリーマンとかが多くなって来ています。 つまり、中国語とか中国文化を知らなければならないという状況になって来ているということなんです。 企業によっては、これからは英語だけじゃダメだと。
  英語と中国語両方出来なければ採用しないというところも出て来ましたよね。 そういう状況になって来ているわけだから、やっぱり中国を知りたいだとか 中国語を学びたいという人がどんどん増えて、必要になってくると思います。 そうするとやっぱりお互いにだんだん分かってくるだとうと思うんですね。

黄 :  言葉が分かってくると親しみも増えるし、トライする気持ちも出て来ますよね。

西園寺 :  私はかつて北京に移住しましたよね。切実な感覚があるんですけれども、 始めは言葉が全部分からなかったので。少しずつ覚えて行って、 覚えて行くに従って世界が広がって行く。見えないものが見えてくる。 そういう意味では中国語を学んで、中国の文化を知るということはとても大切なことです。

黄 :  ですから、日本の中学・高校の教育の中に中国語という科目も入れてもらいたいと思いますね。

西園寺 :  今は高校では大分多くなって来てますね。全国で500校くらいあるんじゃないですかね。 必修ではないのですが。最近、孔子学院にある幼稚園から中国語を週に一回やってくれって依頼があったんです。 英語はやってるところはあるんですよ。中国語もやるというのが出てきましたね。これは新しい現象ですね。

黄 :  子供の方が早いじゃないですか。

西園寺 :  早い。

黄 :  ヒヤリングも感覚で覚えるのでいいですよね。

西園寺 :  最近うちでは3歳から10歳までの親子で学ぶ中国語というの講座を作ったんです。

黄 :  反響はどうですか?

西園寺 :  すぐ万杯。

黄 :  そういうのは嬉しいですね。

西園寺 :  小さい子は3歳、一番大きい子で9歳かな。つまり、遊びながら学ぶんです。

黄 :  歌を歌いながらとか、数を数えたりとか、ものの言い方とかね。

西園寺 :  そうそうそう。だから、新聞社などで世論調査なんかをしますと、 数字の上ではあまりいい数字は出て来ないんですけど、実際はもっと動いてるんですね。

黄 :  私の知る限りではテレビとか報道のことを抜きにして接触してる中では、 嫌いっていう人はあまりいないんですよね。旅行に行く前はちょっと心配だったけど、 帰ってきたらまた行きたいと思ったというのが双方にあるので。

西園寺 :  だから、やっぱりだんだん相互理解が高まって行っていると思いますね。

黄 :  近い将来は是非、韓国と同じように親しみのある国になるというのが願望ですね。

黄 :  最後の最後に、先生の趣味などをちょっとお聞かせください。

西園寺 :  趣味ですか?私の趣味、ストレス解消は二つです。魚釣りとカラオケです。
  カラオケというのは、カラオケで学ぶ中国語講座というのも作っていまして、 みんなで一緒に行って中国の歌を唄うとかね。全く個人的な趣味は魚釣りです。

黄 :  釣りはうちの父の友人もみんな好きですよ。

西園寺 :  今、中国でもとてもブームですね。というのは、中国も高齢化が進んで中高年が多くなってきて、 中国でまだまだ遅れているのは中高年がリタイアした後やることが無い。 日本の場合はカルチャーセンターとか色んなものが出来たけれども、 そういうものが中国にはまだ無いんです。だから一番手っ取り早いのが魚釣りとかダンスとかですね。

黄 :  ダンスは結構ありますよね。よく街の中でも公園でも上手に踊ってますよね。

西園寺 :  魚釣りというのはそういう人たちから需要があるでしょ。 そうなると農村の人たちが畑を耕すよりも釣り堀作った方が儲かるんですよ。

黄 :  やっぱり中国には農業をやってもらいたいと思ってしまいますけどね。

西園寺 :  農民が経営している釣り堀みたいなものが沢山あるんです。

黄 :  今はそういう現象が起こっているんですね。先生は行ったことはありますか?

西園寺 :  ありますよ。中国から来て日本で釣り道具を買う人は沢山いますよ。

黄 :  釣り道具屋さんが忙しくなっているというのはそういうことなんですね。 家電だけでなく釣具屋さんもという話を聞いたことがあるんです。

西園寺 :  ただ面白いのは、日本で魚釣りの竿を買う。買って後から見たらMADE IN CHINA。

黄 :  でもそれは中国では売っていないんですよね(笑)

西園寺 :  売っていない。輸出用だから(笑)

黄 :  ゴルフとかテニスとかも最近中国で盛んになってきたとか。

西園寺 :  中国では盛んですね。富裕層の中では。

黄 :  富裕層の中では盛んですし、スポーツの大会とかでも結構中国の選手がこの頃名が出てますよね。

西園寺 :  中国もだんだん豊かになるに従って、いわゆるレジャー産業とか発達してきてますね。

黄 :  そうですね。いろいろと楽しいお話を聞かせて頂いて、今日は本当に有難う御座いました。



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