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黄 :  20年位前にジュンコ先生を北京飯店でお見かけしたことがあります。

KJ :  そうですかぁ、その頃北京飯店に泊まってましたからね。

黄 :  私も北京飯店に泊まっていたんです。ちょうど20年位前だと思います。

黄 :  それでは、本日はお忙しい中有難う御座います。
このインタビューは中国の『中央人民広播電台』という中国で 一番大きなラジオ局の日本語版インターネット・サイトを私が担当で やらせて頂いているものです。

KJ :  中国電視台っていうのは?

黄 :  電視台はTVで私の方はラジオ局です。

KJ :  日本でいう『NHK』みたいな感じ?

黄 :  そうです、そうです(笑)。
そこの日本向けのインターネット・サイトです。 日本と中国にまつわる最新の出来事や文化的な交流などを取り上げております。

KJ :  それは日本人が見ているものなんですか?

黄 :  日本にいる華僑や、中国に関心のある日本人、それから一部の中国にいる 中国人に見て頂いてます。

KJ :  そうなんですか。

黄 :  はい。

黄 :  まずは、ジュンコ先生が1985年に北京で一番大規模な『ファッションショー』を されましたけれども、そのいきさつやキッカケをお聞きしたいのですが。

KJ :  初めて行ったのが1978年でね。
『Paris Collection』を初めてやるということで、私は日本人だから『日本』をテーマにしようと思ったんですけれども、『やっぱり私一人が日本人じゃないので、日本のルーツはなんなのかってことで、そうだ中国だ。』って。ただ、中国っていってもなかなか周りに中国人がいないし、せいぜい中華料理屋さんしかいなくて、『中国の文化』っていうものを目で見るっていうことが無かったので、一度中国に行きたいなと思っていたんですね。
それである時に、スワトウの展示会が上海であるというので、そのちょっとした情報に乗って、『じゃあ行きます。』ってことで同じ行くならばと『私のファッションショーのビデオ』を持って、それを映す機械も無いのでそれも持って、主人と二人でそれに参加したんですね。そしたら、税関で中をチェックしないとダメだってことですぐに封印されたんですね。
その時は和平飯店に泊まりまして、和平飯店まで税関の人が来てくれたんですね。それでショーのビデオ見せたら、その時はもう大変派手なショーだったんですよ、『なんで青い目の西洋人が着なきゃいけないのか?』とかね、『どうして、音楽が必要なのか?』とか、質問が凄い。なんていうかなぁ、笑っちゃうような質問なんです。
ただ、そういうものを見たことないので、文化大革命の3年後ですよね、ですからもう、『贅沢は敵だ』っていうことで、そういうなんか、華やかなものっていうのが恐らく一切皆無な状態で、皆『人民服』を着ていて私の思う中国とは違ってたんです。実はね。
*汕頭市(スワトウし、せんとうし)は中華人民共和国広東省東部に位置する地級市。スワトウ刺繍が有名である。

KJ :  それで、私たち二人が南京を歩きますと後ろに100人位着いてきて、
『あなた達はどこから来たの?』
『日本の少数民族か?』
って言われたんですよ。それ位、あちらから見ると特殊な、まぁ人民服しか着てなければ、『見たことない人が来た!』ってことで、それに日本人の商社マンと全然違いますよね。
もう本当に人だかりになちゃって、私が空っぽの誰も入ってないお扇子屋さんがあったのでそこに入ったら、その人達も一緒に入って来ちゃって満員になっちゃって私の見たいものが見れなくなっちゃったんですよ(笑)。
そういう風に、なんか物珍しく見られたんですけど、それから帰りは北京経由で帰ったんですね。

北京ではやっぱりどうしてもその当時は、タクシーも無くてホテルの予約も出来なくて、まぁとにかくその時は民族飯店だったかな?そこに泊まって。そしたら、その暗いホテルにパッと電気が着いたんですよ。『日中友好条約』の園田外務大臣がそこに泊まられてて、それの調印する日だったんです。
それで沢山の記者の人がバァ〜っと来て、物凄く良いカメラを持ってるから、『どうしてそんな良いカメラを持ってるのかな?』って。そしたら全部日本人だったんですね。そんなことで、あちらも私たち日本人がこんなところにいるなんて思ってないから目を丸くして見てましたね。
それで、万里の長城に行って、その帰りのタクシー中で聴いた音楽が田園風景と物凄い素敵に合っていて、やっとなんか中国の美しいイメージに出会ったんですね。
それはヤオ族の音楽なんですがその曲をショーのフィナーレでやったんですよ。
そういうイメージで私はショーを作って、ですから直接見た中国の伝統的な物とか、故宮も行きましたけども、中国からの影響はあまり無かったんですね。

私の勝手な中国の想像でショーをやっても大変面白かったんですけど、それから大分経ってから1984年ですね、大分経ってから北京中央美術学院から『ファッション部』を作りたいというような案が持ち上がって、私に講師をということで電報が来たんですね。
電報が来たけど、数字なんですよ。まだあの当時、数字の電報ったって中国から来たのは分かるけど読めなくて中国大使館に持って行って『なんて書いてあるの?』ってことで、そこから始まったんです。
まぁ、一度北京に行っているので、なんとなく様子が分かるから、ただ私は北京中央美術学院で講師になるのはちょっと難しいし、中国語も出来ないしちょっと難しいしかなって、でも一度会いに行きますということで、向こうからの招待で最初は行ったんですね。
それで考えて、『じゃあ、私がファッションショーをやるから、学生に手伝ってもらってやりましょうか。』っていうことに決めました。
それで日本から飛行機をチャーターして、ステージに貼るカーペットから壁紙から全部、貼る人まで全部一式持って行って、かなり大きなショーですから、モデルは中国の新聞で募集して沢山来たんですけど、何をするか分からないんですよ、170cm以上、運動のできる人っていうんで募集したのと、『ファッションショー』って言葉すら知らなかったので。 それで『時装表演会』って書いて初めて言葉が見つかったっていう感じですね。
今はジソウとかジショウとか言いますけど、本当に何も分からない。

ただ、受け入れてくれたのが胡 耀邦さんの奥様の李昭先生です。その当時は通産大臣で中国服装協会の会長、そんなことでそこが全部受け入れで一緒にやってくれることになったんですね。それで89年にファッションショーを北京飯店の宴会場ですね、あそこでやりまして、それがですね、荷物がまだ届いてなくて、そういう状態だから電気が真っ暗で、電気の容量が足りないんですね、今と全く違う訳ですよ。どこもかしこも薄暗くて、電気の容量の為に電源の何かを持って来てもらって12時間かかって電気が点いたんですよ。
電気の暗い間にも人が入って来ちゃうんです(笑)。
『この人たちはどういうこと?』
って、だってショーの日じゃないんです。ショーの二日前なんですよ。
『公開リハーサルでもうチケット配りました。』
って言うのね(苦笑)。

ゾロゾロゾロゾロもう、キリがない位に入って来るんですよ。そんなこと聞いてなくて、ただ皆興味があって。
工場の人とか色んな人がなんか薄暗い格好をして来るんですね。色は一切無いですね。そんなで暗い中、何も出来ないので、とにかく電気が点かないと洋服も見せられないし、じゃあ、モデルの歩きを練習したから、歩きだけでも見せますかということで、でもマイク も通じない訳ね。本当になんか暗い感じでモデルの練習をしていたんですね。
なんでも良いから、せっかく入ってくれたんだからと思う一方、だけどやりようがないんです。そしたら突然、途中からパァン!と電気が点いて。
『じゃあ、もう一回最初からやります。』
ということでリハーサルをやってなんとか収まったんですけど、リハーサルだけで3回やってるんです。
『リハーサルで配りました。』って言うんだもん(笑)。
募集で来た人がやれるかどうかも分からなくて、だから二日に渡ってリハーサルばっかり。まぁそれくらいやって良いんですけど、良いんですけどそれにしても人があんなに(笑)。 それから私は『公開リハーサル』って言葉を覚えたんですけど、逆に東京でショーをやる時にリハーサルを完璧にやるので、勿体無いから子供達に見せようとか、そういうことをあれで覚えたんですけどね。

そのショーは、本当にダイナミックなショーで最後に李昭先生と二人でステージを歩いたんですね。
そしたら李昭先生は、
『これは将来の中国の姿です。こういう風に手を取って歩きます。』
っていうことを言われて、それからどんどんどんどん変わって行ったんですね。あくる日に、北京の人民政府にご挨拶に行ったんですね。
そうしたら、『北京をどう思う?』とか意見を求められたので、言ったんですよ。『王府井(ワンフーチン)はね、ブティックのような洋服作って売っているところはあるんだけれども、金のハンガーで掛けて、入り口に痰壺置いて、お客が来たら電気点けるみたいで、サービス精神が無いっていうか、まず汚い。王府井なんていうのは、日本で言ったら銀座通りですよ。あそこをなんとかしないと中国が最悪に見られるから、あそこはポイントですね。』って言ったんですよ。

じゃあ、どうしたら良いかってことになって、相談に応じたんですよ。『じゃあブティックを作りましょうか?』ってなって、それでブティックを作ったんですよ。
王府井をずっと行った所の左側にレーモンコースっていうんだけど、昔から要人がスーツを作る所があって、そこでメンズを作って、最初はツウスウコウ・トウターチェイという所で、そこでレディースの店を作って、その時はやっぱり新聞でこの日にオープンするからって書いたら、その時もやっぱり3000人位来て。
お金を壺に入れてたのか、とにかく銀行を信用しないから自分でお金を貯めて持ってるんですよ。そのお金が膨れ上がっちゃってこれ位の束にして持って来るんですよ。それで皆、手が汚いっていうか、洋服を触るんですよ。だからビニール被せたり何をやってるのか分からないんだけども、とにかくあれが中国でしたね。

黄 :  では、その学校の講師になって欲しいというのがきっかけですね。

KJ :  きっかけですね。
それから講演はしたんですよ。何年か経って講演はしたんです。一応やることはやったんですけども、講師でずっと長く行くのはちょっと私には難しいのでということで。講演はしましたね。

黄 :  中国は先駆者というか『最初に井戸を掘った人』っていうのはとても大事にする国ですから、私の知っている限りでもジュンコ先生が一番最初にデザイナーとして中国に来てくださったというのがありますが、中国の服装・ファッションの分野においての権威はジュンコ先生だと言われていますね。

KJ :  やっぱり最初に見た人っていうのが忘れないんですよ。
相当ショックだったようで、その時に関係した人、見た人全てですね。その影響でファッションに関係する仕事という、新しい職業が出来たんです。モデルクラブを作るとか、イベントの会社作るとか、洋裁学校作るとか、美容室を作るとか、色んな職業が出来たんです。
だから皆忘れないんです。わざわざ上海から、その美術学校の先生が来たりとか。あんな遠くから来たんですよ。

黄 :  あの頃は、とてもファッションショーなんて出来る国ではなかったので、とてもセンセーショナルだっだんですね。

KJ :  あれは恐らく、一生忘れないというような衝撃でしょうね。

黄 :  では、色々なお話をお聞きしましたが最初に中国に言った時に一番印象に残ったことはなんでしょうか?

KJ :  私の思う中国じゃなかった。とにかく色が何にもない。色はグレーかベージュか茶色、オリーブグリーンか紺、黒、色じゃない色ですね。だけど、よく見ると下からね、綺麗な色が見えてたりするんですよ。だから人民服の中に綺麗な色は着てたと思います。

黄 :  そうですね。私の知っている限りではセーターとか中に着ている物は結構派手な色でした。

KJ :  着てました。隙間から見えるんですよ。

黄 :  元々中国の国民性って派手な色が好きなんですよ。ですけど、文化大革命だとかで、、、。

KJ :  『贅沢は敵だ』とか抑えた感じの国になってしまっていたから、色を抑えたっていうより、気持ちを抑えていたと思うんですよね。だから私のようなショーなんて違反なんです。
だけど文化大革命から約10年と大分経っているんで、そろそろ目を開きたいっていうタイミングがあったんだと思います。

黄 :  なんか縁がありますね。ジュンコ先生が最初78年に中国に旦那様と来られた時が凄く良いタイミングだったのですね。

KJ :  私はパリコレでね、日本のルーツだと思った時から中国だったんですよ。先日、上海で『チャイナLEON』という雑誌の招待で500人位のパーティーでレッドカーペット歩いて、日本からとか韓国からとかイタリアからとかLEONの中国版ということで、私が代表してステージで挨拶をして、ということをやりました。

黄 :  万博の親善大使もされましたね。

KJ :  そうですね。中国に関係する政治には関係ないんですけど、文化的にいうと、恐らく最初に井戸を掘った人だとは思うんですけど、最近は最初に井戸掘った人を忘れてますね。って感じがするんですよ。井戸を掘ったことを覚えてる人が、だんだん年をとっちゃって引退とかっていうのがあって。次の世代の人がね。

黄 :  今までで、中国に携わって一番感動したことはなんですか?

KJ :  まっさらの時に行ってますから、中国の人にとっては全てが感動だったと思います。
こちらにしても、こんなに中国と関係するなんて思わなくて。私もパリコレやってる最中で、自分にとっても一生出来ないことをやろうと思って。あの当時はまだ毛沢東とかそういう時代ですので。ステージを真っ赤にして、とにかく私もあんなに派手なことはあれ以来やってないですけど、ステージも壁も真っ赤っかだったんですよ。本当に思い切ったことやって良かったと思います。

黄 :  私はお写真で拝見したんですけど綺麗な紅ですよね。

KJ :  真っ赤なステージなんて珍しい、パリでも無かったです。その通りにパリでもやってるんですよ。同じことを。本当はパリコレ終わってそれからやろうと思ってたんですけど、とにかく日にちが。パリコレは年に二回やってますからね。

黄 :  ジュンコ先生のイメージでは中国はやっぱり『紅』ですか?

KJ :  『紅』ですね。でも今はね違うと思いますよ。どんどん変わってきて。あの当時の『紅』っていうのは、赤い表紙の『毛語録』を置いて一生懸命、縫製工場の人たちが縫っていたんですよね。赤い横断幕をバァーっと貼ってね、スローガンが書いてあって。

黄 :  私は横浜の中華学校だったんですけど、赤い毛沢東語録を勉強しました。

KJ :  覚えるんですか?

黄 :  はい。全部暗記するんです。

KJ :  ずっと横に置いてましたね。

黄 :  朝の朝礼の時にまず先生が読んで、私たちがそれに続き唱えて、暗記してっていうかんじでした。

KJ :  聖書みたいですね。

黄 :  聖書みたいでした。

KJ :  今でも覚えてます?

黄 :  覚えてます(笑)。

KJ :  素晴らしいじゃないですか。

黄 :  以外と仕事なんかの時に、こういう時はこうなんだなって使える語録がありましたね。

KJ :  どんなのですか?

黄 :  例えば、『敵が反対することはやっていいことなんだ。』と。つまり、敵が反対することは自分にとって良いことなんだと。だから敵が反対することを推し進めなさいと。仕事上敵とは競争相手や、商売相手ですね。

KJ :  面白いですね(笑)。

黄 :  面白いんです。

KJ :  考え方がね、逆も真なりって感じ。私も毛語録持ってるんですけど読めないからただお飾りで、何書いてあるか分からなくて、改めて日本語版じゃないけどそういうのがあれば。

黄 :  日本語版も確かありますので探しておきますね。

KJ :  そうなんだ、面白いわそれ。

黄 :  大きな山ほどそれを苦労して切り崩せば大きな成果が待っているとか。なんか当たり前のことなんですけど。

KJ :  でもなかなか言葉にしてみるとお勉強になりますね。

KJ :  この前、温家宝さんがいらした時に、向こうから10人、こちらから10人の20人の文化会をやったんです。その時にお習字の書道家協会の会長さんが中国側にいらして、日本側の書道の方もいまして、凄く私が感動したのはですね、温家宝さんが難しいことを言うのではなく詩ですね、中国の漢字の詩を読まれたんです。
こういうことが教養なんですね。そしてさらに、中国の詩に対する感想を日本側は漢詩で表現した訳です。それをヘンカンっていって、それを辻たかしさんがされました。それが出来る人はなかなかいないと。それで、その道理を中国の書道家の先生、日本の書道家の方が同時に墨で書くんです。中国側の書道家の先生はこんな長い筆なんですよ。細長くって墨を一回付けたきりで最後までサラァ〜って、とにかく書かれましたね。

黄 :  私も書道を習っておりますが、先生は一回付けるだけで、貯めるんですって上に。それも技術の一つで、そうすると大体最後まで掠れないんです。

KJ :  最後の細い所まで付けなかったんです。

黄 :  付けないことも一つの技術だって言われました。

KJ :  何回も何回もやっちゃうよね(笑)。

黄 :  筆の上に貯めるそうなんですね、墨汁っていうか墨を。

KJ :  その後ね、迎賓館でパーティーをやった時にたまたまお会いした書道家の先生がいてそこで紹介されて、書道家協会の会長さんですね、その方に通訳入ってもらって何を言ったかっていうと、『あの筆は普通に売ってますか?』って。何回も行ってるけどあぁいう筆は何処に売ってるのかなって思ってたんですけど普通に売ってるんですか?って、北京だったら何処で売ってるのか聞いたんですよ。あの筆に興味があるんだってことで、そしたら『じゃあ今度送ります。』ってことになったんですよ。でも、『送らなくてもあの今日使った筆で良いんですけど。』って言ったら、『それなら簡単。』ってね、中国大使館を通じて頂きました。いやぁ、凄い思い出です。言ってみるもんだなぁと思いましたよ。

黄 :  中国って以外とそういった親切心とかサービス精神があるんですね。

KJ :  はい、それで貰いました。えぇ。凄いなんか嬉しくてね、あまりにもサァ〜って書けたんで、楷書なんですよ、いちいち付けないでサァ〜っという間に流れるように書いて、あまりにも素敵だったから、感動したから言ったんですよ(笑)。

黄 :  まぁ、でも中国と日本は近くて遠い国って言われてましたけど。

KJ :  あの頃は本当に近くて遠かった。私ヨーロッパにはパリコレやってる訳だから、あれからどれだけパリに行ってるか、年2回どころか年に何回かでしょ。だけど、その後からですね北京に行くようになって、そ時は電話かけるのに4時間とかね。

黄 :  そうなんですよね。待っても待っても繋がらなくて。

KJ :  4時間。4時間後にやっとかかってくるっていう。

黄 :  今はもう普通にですからね。

KJ :  それより今は携帯持って世界のどこへでも簡単にねぇ。

黄 :  そうですね。では、中国と関わって色々なことをされた中で、一番大変だったこと、困ったこととは何ですか?

KJ :  困ったことっていうのはね、ブティックをやってたでしょ、その時にね、真夏、暑いんですよ、冷房がないのね。暑くてもうイライラしてくる位暑いんですよ。だから皆ダラァ〜ってしてて働かないんですよ、働かない癖が付いちゃったのか。一度私日本語でね、物凄く怒ったんです。そしたら急にバァーって出来るの(笑)。
『この人達は一体何だろう?』 って思って、本気で怒ったら、日本語ですよ、もう通訳なんか出来るような感覚じゃない、もうガァ〜っと怒っちゃったら急にそれが分かったのか急に働くんですよ。あれって凄い経験したんだけど、あの暑さは耐えられない位暑くて、冷房が無いでしょ。それがちょっとねぇ。

黄 :  最近では何かございますか?

KJ :  今はあまりにも便利です。あの当時の大変はトイレです。トイレが大変。とにかくトイレと、お料理を置くお皿の上にまたお皿を置いて山積みにしちゃうみたいな、マナーが無いっていうか、それがいくらね、頭が良くてもなんでもマナーっていうのは経験なんですね、経験が無いから何とも言えない。だから『毛語録』にはマナーのことはなかったんじゃないかと。

黄 :  無かったですね(苦笑)私の記憶では。

KJ :  それが無かったですね。今でも車のことでも取り合いするとか、順番が無いとか。

黄 :  待つっていうのが。それでも昔に比べたらトイレなんかはみんな並ぶようになりました。

KJ :  トイレは良くなりましたよ。トイレが解決しただけでも大分違うんですね。最近は水洗の、ウォシュレットじゃないけど、まぁホテルですけどね、本当にこんなに変わる物かと思うくらい。

黄 :  一般的な普通の大衆が行くショッピングモールなんかのトイレでも昔に比べたら随分綺麗になりました。

KJ :  そうです、もう何処も。まぁ田舎の方に行けばね、まだの所もあると思いますけど。とにかくこんな穴掘って。みたいな。ビックリしちゃうわね。

黄 :  私も田舎によく行きましたけど、『そこの穴の中で、、、。』と言われ。お堀みたいなところで。

黄 :  (笑)

KJ :  (笑)

黄 :  3年前に映画の撮影をした時も四川の田舎の方だったんですけど、地震に遭った村とか行った時にはもうトイレは本当に大変でした。

KJ :  大変ねえ。

黄 :  まだ本当に2、3年前ですけど。

KJ :  そうですね、四川ねぇ。

黄 :  大地震の所へ撮影に行ったんですけど、都会は日本と変わりは無いですが、

KJ :  都会が結構拡がって北京、上海どころか深センとか広州とか結構どこ行っても都市が沢山あるんですよ。

黄 :  内陸の方も少し近い内陸ですと、もう本当に日本の生活と変わらない感じですね。

KJ :  そうなの!それが不思議でしょうがないの。

黄 :  発展が早かったのかな。

KJ :  早かったですねぇ。

黄 :  インターネットや通信なんかも発達したので。

KJ :  最近、Twitterなんかで名前なんか書いちゃって、一つ間違えると大変なことになるからね。

黄 :  大騒動になっちゃいますからねぇ。

黄 :  最後になるのですが、2012年は日中国交正常化40周年ですが、
ジュンコ先生は初めて中国に行かれて文化的な色んな交流をなされて、中国にとってはとても貢献して頂き、日中のこれからのことについてもとても貢献されているデザイナーの先駆者だと思っているのですが、2012年は40周年の記念ということで企画か何かされるご予定はありますか?

KJ :  うちも今まで散々投資をしてきた訳です、早く言えば。だから刈り取りっていうのか、そういう時が来たと思いますね。でも、皆さんよく知ってるので今回も雑誌の招待で行きましたけども、そういう意味で分かってる人は居るし、やることは今からやれるので色々と仕事の方でやっと始まっています。

黄 :  40周年というタイトルでなんか記念の行事とかファッションショーとか何か企画とか決まっていますか?

KJ :  そういう話はあるんですけどね、今まで散々ファッションショーしたでしょ、ファッションショーの在り方が凄く平凡というか当たり前で、フレッシュではないし感動があるかどうかちょっと疑問ですね。

黄 :  せっかく節目なので、北京か上海で向こうのメディアに出て頂いて、そういうのが出来たらいいなぁなんて私は思ってるんですけど。

KJ :  そうですね、何かの時はお手伝いさせてください。

黄 :  何かありましたら、その節は宜しくお願い致します。
今日は本当に有難う御座いました。

黄 :  謝謝。

KJ :  謝謝。



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